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母の話、そして、私の懺悔の話161:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 22:09:47.20 ID:ToWAOaQY 母の話、そして、私の懺悔の話となります。 私は、私生児として生まれました。父はおりませんでしたが、周囲では、珍しい話でもありませんでした。 それでも、私生児なぞ産んだ、しょうもない女であると、母が言われておりましたのを、今は思い出すことが出来ます。 母が、そのようなことを、世間様から言われておりますことに気付かぬ子供のうちは、父親は誰ですかと、母に夜ごとに訊ねる夜でした。 そのたび、母は「お父様は立派な方です。」「会えぬとしても、お父様に恥じぬよう、立派な人になりなさい」と、私に言ってはおりましたが、 最後には、「苦労をかけて、すまないことをしますね」と、言って、泣き笑いのような顔をいたしますもので、私も、十になる時分には、父の話をせがむのを、やめるようになっておりました。 母は、私が十の年には、まだ、二十代も半ばでした。働けど、若い女のことです。 母一人子一人、楽な暮らしではありませんでした。 続きます。 ※僕らの知らない生活をする人たち 55人目※ http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1304065977/ 162:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 22:23:54.12 ID:ToWAOaQY 続きです。 私は、父のことを口には出さぬようにはなったもの、母の言う、「立派な方」であるところの父への思いは、募るばかりでした。 所謂思春期の、愚かな思いであったことだと今は、思う次第です。 当時、私たちは、一箇所に留まることは長くない生活を送っておりました。これも、当時は、珍しいことではありませんでした。 十三才の晩秋であったと、記憶しております。少ない、母の荷物の中に、三通の手紙を、見つけたのです。 それは、男性からの手紙でありました。内容はまるで、母を励ます郷里の兄からのもの、といったふうに、読み取れました。 母にも、私にも、郷里といったものはなく、私にも兄などおりません。十三の身で精一杯、見聞きしたうちよりそう思ったのだと、お受け取りください。 おおかたは、忘れてはしまいました。今も、覚えておりますのは、「しくヽと、ないてゐてはいけないよ」「あなたは、つよくいきなければ、いけないのだよ」といったことが、記してありました。 どの手紙にも、おおむねは、そのようなことが記しておりました。 続きます。長くなって申し訳ありません。 163:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 22:38:46.99 ID:ToWAOaQY 続きです。 そうして、私が思ったのは、「この人こそが父である」と、いうことでした。 結果として、それは正しい直感でありましたが、浅慮でありました。浅はかで、ありました。 更に愚かしいことに、それを、読んでしまった私の胸に起こったのは、顔も知らぬ父への思いではなく、怒りであったのです。 母は、苦労をしておりました。時世の折り、苦労のない人など、なかったことでしょう。しかし、母は私の目には、不当な苦労ばかり負わされて、重みに、小さくなっているようにしか見えなかったのです。 手紙にある日付は、私が生まれる、二年半ほど前でした。裏書きの住所は、行けぬことはない、とある大きな街でした。 そして私は、何も考えずに、先方に連絡すら取らずに、差出人の男性の元へ、向かってしまいました。形としては、家出も同然でした。 旅行など、とんでもない時世でした。しかし、移動の要はあり、切符も一昼夜ほどで、手に入りました。 今思えば、十五年近くも前の住所だけを頼りに、よくそのようなことをしたと、我ながら、ほとほと呆れます。 しかし、そのときの私は、父を見たら、あれを言ってやろう、これを言ってやろう、と、そればかりを考え、眠れもしませんでした。 続きます。 164:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 22:51:07.02 ID:ToWAOaQY 果たして、その住所に、父である人はおりました。 大きなお宅でありました。私は、門から入り、(ぐるりと板壁の周囲を巡ると、勝手口はありましたのですが、憤りと見栄もあり、どうしようもなく、勝手口の戸を叩くのが、厭でした。)出ていらした女性に、差出人の名前を出して、取次を頼んだのです。 後々、知りましたが、その女性は、父の妻でいらしたのですが……。 私は、小上がりのような座敷に、通されてしばらく待ちました。待っております間に、お汁粉が、出されました。 砂糖も小豆も、大変に貴重でした。食べたかった。食べたかったのだけれど、私は口をつけませんでした。ひとえに、くだらぬ、見栄のゆえでした。 ふすまを隔てた、向こう座敷には、既に人の気配と、影がありました。それでも、待たされ、ようやく私は、通されました。 父は、母よりも、かなり年が上に見えました。ほとんど、私の祖父といった、年でした。後から、知ったことによりますと、父が五十過ぎのときの子が、私でありました。 続きます。長々と申し訳ありません。 165:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 23:03:59.25 ID:ToWAOaQY 続きです。 父は、私に、「お汁粉は、食べましたか。」と、聞きました。穏やかな、声でありました。 私が、顔も上げずに首を振りますと、しばらく父は黙って、私にいくつか、質問をしました。 私は、父に、「お前は、私の子であるか。」とは、訊ねはしませんでしたが、察したようでした。母の名を出し、住所をと、訊ねたのです。ある時分から、連絡が、つかなくなった。よく訪ねてきてくれたと、父は言いました。 父は、母に連絡を、取ったようでした。電報か、人をやったかであったのだと、思います。その夜は、四畳半敷きの、東向きの部屋に、通されました。 風呂を勧められましたが、ご馳走には、あがりませんでした。父が、部屋まで来てもくれましたが、私は、薄汚れたまま、ほとんど、口を利きませんでした。 朝夕の膳も、ほとんど、口をつけずにおりました。四日程、後でありましたが、母が駆け付けてくるまで、じっとじっと、しておりました。 続きます。 166:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 23:17:05.83 ID:ToWAOaQY 続きです。 母が、来るまでの間、私は、ただひたすらに、母が父に、私に、何と言うだろうと、考えておりました。 飛び出した私を、叱るだろう。母を呼び寄せた父に、何と言うだろう。恨み、辛み、積もるほどにあるだろうと、考えておりました。 今思えば、不思議なことです。これから、私自身がどうなるのが良いか、何を、希望するのか、そういったことは、考えは、しませんでした。 そうしているうちに、母が駆け付けてきました。身の回りすべてを詰めた行李を、背負っておりました。仕事も、住まいも、引き上げてきたのです。 私は、上がりかまちで、母を待っておりました。当時の列車は、半日一昼夜と遅れるのが、常でありましたが、父と、父の妻も、一緒に待ってくださいました。父の妻は、白湯を何度も、私に、出してくださいました。そのたび、「お母様は、すぐに、おいでになりますよ。」 「ご心配もおありでしょうが、待っておりましょうね。」と、言ってくださいました。私は、押し黙ったままでした。今思い出すと、消えてしまいたく、なります。 長いですが、続きます。 168:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 23:29:48.40 ID:ToWAOaQY 続きです。 やってきた母は、蒼白な顔を、しておりました。そして、敷居の前で、両手をついて、額を土に擦りつけました。「申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。これ以上のご迷惑は、おかけいたしません。二度と、敷居は跨ぎません。」と、絞り出すような声で、言いました。 そして、私を睨みつけると、大声で、私の名を呼びます。私は、母の真意が、全く分からずに、うろたえるばかりでありました。 おずおずと、母に歩み寄ると、母は私の横面を、殴り飛ばしました。母は、穏やかな人であったのです。その、穏やかな母の、これほどまでの怒りの形相に、若く愚かな私も、ようやく自らのやらかした所業が、理解出来たような気がいたしました。 父と、父の妻、家にいた男手に宥められる間に、母にもう何度か、殴られました。私を打ちながら、母はずっと父と、父の妻に謝り続けておりました。もっと、殴って欲しかったと私は、思っておりました。 母はいくらか落ち着きを取り戻すと、改めての謝罪と、私をすぐに連れ帰る旨を、告げておりました。 父たちはそれをまた宥め、私は、また四畳半へと戻されました。 169:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/23(月) 23:41:00.43 ID:n6IzbHny このスレを何のきっかけで知ったのか、不思議ー。 173:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:17:35.08 ID:F/AuDkld 続きです。 父たちと、母の間で話し合いが、持たれたそうです。その日のうち、日付が変わる前頃で、あったでしょうか。私は母に連れられ、勝手口から父の家を、去りました。 見送りは、ありませんでしたが、私を、部屋まで呼びに来てくれた若い男性が、私にそっと、お手玉を、持たせてくれました。私が、また断ると思ったのだと思います。ぎゅっと、片手にひとつ握らせて、もう四つか五つを、服の間にねじ込んでくれました。 父の家を出ると、母とずっと、暗い街を歩きました。もう母は、落ち着いておりました。 道々、母が話してくれたところによりますと、母は、当時の私と同じ年の頃に嫁にと出されたのだそうです。相手は、父ではありません。嫁にというのも、口約束であり、「ゆくゆくは、嫁に」という、体の良い、奉公人でありました。 母は、そこで酷く辛い思いを、したそうです。それでも、十代の娘ひとり、どうすることも出来ずにいたそうです。そんな折に、父と出会い、後から聞いたところによりますと、幾らかの金銭と引き換えに、父は、母を請け出したのだということです。 浮気は男の甲斐性、という言葉が、ありますが、これは、夫を亡くした女性、母のような、一人では、生活の立ち行かない女性を、男性が囲う代わりに、一生の面倒を見る、という意味合いが、強い時代でありました。 母も、そのような、言わば、時代の恩恵にあずかるひとりであったのだと思います。 しかし、母は、そのような、仕組みを理解するには若く、世間知もなかったのです。父を愛し、私を身ごもったと知れれば、父の迷惑となると、父の前から、姿を消したのだと言いました。 もうすぐ終わります。申し訳ありません。 174:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:31:05.91 ID:LIBHJ9aW 申し訳ありません、だなんてそんな。 気兼ねはいりません。 175:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:32:36.79 ID:F/AuDkld その後は、しばらく、母は許す限り、以前以上に、居を移しながら過ごしました。 さすがに浅慮の私も、理由は察し、父の話も、いたしませんでした。 その後、生活も落ち着き、現在までに、父の話を聞く機会が、何度かありました。 私が、父の家に行った日に出されたお汁粉は、前々日に出征した、父の孫(私にとっては、甥に当たります。)のためのものであったことや、 お手玉を、くれた男性も、二度目の出征の予定があり、私の異母兄にあたること。父の妻は、この男性の母であったこと。お手玉には、大吉のおみくじの入ったものと、伊勢神宮の砂利玉の入ったもの、小豆の入ったもの、煎り大豆の入ったもの、ありました。 父は、最後まで、私と母を案じてくれたこと、など、長い間に、聞き及びました。 2ちゃんねるを巡るに、様々な話題で、多くの方々が、賑やかに悲喜こもごもの会話を、なさっておられますね。 男と女、親子のありようも、変わりつつあります。私の例は、特殊ではありますが、当時は、「よくある話」でありました。 どこの家庭にも、似たような話はありました。 そのような時代の遺物である私の、戯言でお目汚しいたしましたことを、お詫びいたします。 そんな話も、あるんだなァー、と、思ってくださいませ。 失礼いたしました。 おしまい。 176:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:44:09.35 ID:F/AuDkld >>169 以前から、拝見させていただいておりましたよ。 最近、60代以上板が面白い、というスレッドを、まとめブログで見つけまして、私の話でも、面白い、こんな時代もあったのかァー、と、思ってくださる若い方がいらっしゃるかと思いまして、初めて書き込みを、させていただきました。 >>174 優しい言葉、ありがとうございます。 >>174は、私のように、つまらぬ意地や、いっときの憤りで、後悔することのないよう、日々をお送りくださいね。 それでは、お休みなさいませ。 177:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:48:06.37 ID:06P6JRxH いやはや、一冊の小説を読み終えたような気分だわ 178:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 00:56:58.03 ID:0FlosGup >>176 お疲れさまでした。 家を訪れた後も頻繁に引っ越されてた理由がよく判らない。 後を追いかけにくくする必要はないように見受けられますが。 179:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 01:06:57.48 ID:tDZI6wHI >>176 文章がお上手で引き込まれました。 私などが産まれるずっと前のお話だけに、背景や風潮も含めて まさに「知らない生活」でありました。 とはいえ、当時は「よくある話」だったんですね。 父上の妻(正妻さん)の冷静さが凄いなぁ。 180:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 01:08:16.81 ID:nWdCzrou 行李とか出征とか、普段あまり接しない言葉が却って新鮮でしたよ 最初は新手の荒らしかと思いましたが… 183:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 09:09:27.92 ID:F/AuDkld おはようございます。 ご質問に、お答えさせていただきます。 >>178 一から、お若いかたに、お話させていただくのは、難しいかもしれません。ご理解いただけねば、申し訳ありません。 父と、父の妻は、お話しいたしました、「男の甲斐性」の理屈と申しますか、仕組みを念頭に、私たち母子に、接してくださいました。 もちろん、父たち生来の、情深い精神あってのことでは、あるとも思います。大変、よくしていただきました。 その後、私も長らえまして、父と同じように、女性を世話していた方のお話し、父の奥様と同じ立場で、夫が同じ立場で、女性を世話していた方のお話しも、伺いまして思いますに、 一度世話した女性が、もっとも援助を必要とする、子を身ごもってからの時期、父のように、事実上何の世話もしなかった、(父の場合は、去られた、という状況でありますが……。)というのは、紛れもなく、「恥」の一言であったようです。 母の立場の、女性の側といたしましても、「手切れ」まではほぼ一生を、相手の男性に捧げる、という心構えにて、世話していただく、という、まさに夫婦に準じる、「システム」でありました。 しかしながら、これは、当然のことながら、明文化されたものではありません。財力があり、そういったことを行おうと思う男女、そして、妻の立場の女性の、あくまでも、最も良いとされる心構え、と、いったものであったようです。 芸を生業とする女性や、周囲に、そのような気構えを話してくれる方がいる方が、やはり多かったようですが、(極端な話、それは、男性の妻の立場にある方であったりしたようです。) 母は、お話しいたしましたとおり、そのような事は知らず、思わず、周囲にもおらずでありました。 また、長くなってしまいました。もう少し、お話しさせてくださいませ。 185:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 09:47:39.72 ID:F/AuDkld 続きです。 ですので、当時の、母の心持ちといたしましては、恐らくは、現代ふうの恋愛感情であったと、思います。父を愛し、私を身ごもることが、父にとっての負担であり、迷惑となると、思ったのでしょう。 古風に過ぎる、と、皆様お思いかもしれませんが、父たちの、心持ちよりも、母の側のほうが、現代に通じるところがあるか、と、思います。 父たちと、母の間には、斯様な、深刻な、すれ違いがありました。父たちは、母を世話せねば、身ごもらせておきながら、追い出したも同然、男一生の大恥で、ありました。 >>179の仰いますように、父の奥様が、冷静であった、というのも、道理でありました。私は、顔を合わせてすらいないものの、久しぶりに顔を出した甥姪、弟妹、そのような存在であったのだろうね、と、 さるお方の仰ったことも、ありました。気をかけて当然であり、すげなく追い返すのは、父の奥様としても、有り得ないことであったろうね、と。 思えば、お汁粉の出されて、待たされた、と、思っておりましたのも、私に気兼ねさせまい、ゆっくりと、お汁粉を食べさせてやろう、と、思ってのことであったか、と、思うのです。出征の折に、炊く、お汁粉というものは、隣近所、お世話で囲むものでありました。 私は、家族も同然に、遇されておりました。今思い出しましても、後悔、後悔、後悔ばかりです。恩も、恥も、知らぬ子供でありました。 187:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 10:05:34.03 ID:F/AuDkld ともかく、父たちと、母との間に、あの日持たれた話し合いで、そのあたりのことには触れられたと思っております。しかしながら、溝が埋まるには、至らなかったのでしょう。 父たちには、母の思うところは、理解出来ねど、ともかく、私を連れて去りたいことは分かった、飲んでやろう、と、思ったのでしょう。 母の側は、この夜、知らず身を置いた状況に、思い至ったと思っております。しかし、それでも、父に負担をかけることは、母には、許し難いことであったのでしょう。 お話しいたしました通り、母は私を連れて、去りました。私の知る限りでは、その後、父と会うこともありませんでした。 そのような次第でありまして、父たちとしては、私たちを、追いたかった。母は、それを察知しており、それでも、去りたかった。父を慕うゆえにでしょうか、女の、母としての、自尊心ゆえにでしょうか。 父よりの手紙に、「めそヽとないてゐては、いけないよ。」「つよくいきなければ、いけないよ。」と、ありました。母が、泣いているのを見た記憶は、ありません。 私を産んで、少しの後、お乳が出ず、仕事もなく、途方に暮れて、泣いたことがある、と、老いてから、笑って言っておりました。 そのような次第で、母と私とは、転居を繰り返したのです。時代ゆえ、食える場所を探して、ということも、ありましたでしょうが。 188:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 10:24:00.39 ID:F/AuDkld 思えば、父たちと、母の間の溝を埋めることが出来たのは、私だけでありました。私が、もっと、人の心を推し量ることの出来る、父たちのような、母のような、心があれば、悔やまれてなりません。 母と話なす機会、父たちに、会いにゆくこと、いつの瞬間にも、私には出来ました。けれど、私は、それをしなかった。私の懺悔は、このことでも、あります。 古い古い時代の、話です。皆様には、心情的に、理解出来ないこともおありかと、思います。 父は、家長として、家の全てを全力で守ることが、求められておりました。母は、夫の恥は自分の恥、と、全てを、黙って受け入れることが、求められておりました。兄は、初めて会う私に、精一杯の土産を持たせてやることが、求められておりました。 小豆、煎り豆、糸も布すらも、貴重な時代でありました。おみくじ、神宮の砂利玉、兄上の宝物でありましたか。一度だけ見た、兄上様、もう問う事も出来ません。私が、そうしなかったからです。悔やまれて、なりません。 皆様、お誉めいただきまして、ありがとうございます。このような時代も、ございました。お祖父様お祖母様、お父様お母様も、昔には、今も、このような文章を遺された方も多いかと、思います。昔には、2ちゃんねるに書き込むように気軽に、文章を書いておりました。 直にお声を聞ける方、どうぞ、お話しなすってください。遺された文章に、触れることの出来る方、どうぞ、読んでみてください。 おしまい。 最後は、繰り言となってしまいました。長々と、ありがとうございました。 184:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 09:43:35.65 ID:m1NW0n32 純文学のような端麗で流れるような文章を まさか2ちゃんねるで見るとは思わなかった 昭和後期に活躍した歴史ものの女流作家や 私小説ってよばれる類の文体を髣髴とさせられた 読書が好きなのか それか普段から日記をずっと書いたりしているんだろうな 190:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 11:44:35.49 ID:fBVC0lX0 >>188 何だか泣けて仕方ない お汁粉とお手玉にそんな深さ・重さがあった時代のことを思うと 自然と頭が下がります いいお話をありがとうございました 191:おさかなくわえた名無しさん:2011/05/24(火) 12:59:44.91 ID:PlCv3AIK >>188 ここはロム専のアラフィフです 私の両親は、昭和の時代にしては結婚が遅く、 同世代の親御さんよりも戦争の記憶が鮮明なので、苦労話を散々聞かされましたが お汁粉の話は初めて知りました。 ご立派なお宅の当主であるお父様と、とてもよくできた奥方様 そして素晴らしいお母様と、複雑な事情はあったにせよ 今の時代には見かけることがなくなった、人としての本当のプライドというものを 垣間見ることが出来ました。ありがとうございました 恒子の昭和: 日本初の女性報道写真家が撮影した人と出来事 関連記事リスト
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